2015年5月24日日曜日

大人の知性とアニメ

いやあ、急に暑くなってたなぁ。
アニメが幼児性から脱却出来ないっていうのはなかなか根深い問題だなと思った。
映画だったり芝居だったりは、大人の為の作品というのがしっかり存在する。
アニメだって大人の鑑賞に堪える作品ももちろんあるけれど成立させるのはかなり難しい。
映画だって最近は大人向けの作品というのは少なくなってマーベルのコミックスの映画化だったり子供の物語が商売としての中心にいるし、日本のアニメなんて元々が子供向けに制作される所から始まっている訳だから幼児性と不可分なのは仕方ないとも言える。
技法的に子供に向けた表現との親和性が高いことも理由だろう。
しかし今のアニメの幼児性は大人が消費する為の幼児性なのでそこが凄く引っかかる。
大人が消費する作品なのに幼児性が必然のものとなっているのは観客が幼い大人であるという事に他ならない。
これは今に始まった事ではなくて40年近く前のオタク第一世代誕生の頃が始原であろう。
元々ティーンの頃に見ていたファンが大人になっても子供の頃見ていた様な作品を手放さず、それどころか制作者側に回った時に同じ様な作品を再生産するということが日常になって久しい。
かくいう自分もその類いで子供の頃見ていたような作品と似たものを作りたいというのが初期衝動だ。
しかし制作者側になったときには既に時代も変わり同じものなど作りようがないのですが、昔は子供の作品だからアニメに幼児性があるのは当然と思えていたものが、大人の見るアニメにも幼児性が必然となると、その必然性を一般的に理解してもらうのは難しく見える。
アニメの批評が成立し辛い理由も批評という行為自体が大人に向けた行為であるという事を考えると当然のように思える。
しかし、大人の知的な遊びというのは現状の娯楽では商売として成立しづらいのかもしれない。
単にそういった作品をつくる人材が少ないという可能性もある。映画のヒット作品の傾向などみても多分、大人の知性というのは(少なくとも)娯楽の中では必要とされていない印象だ。なので、とりたててアニメだけが幼児性を求められている訳ではないと思う。
しかしアニメの場合素材として扱っている絵が幼児性を強調する。
目の大きいキャラクターは幼児性を体現しているので子供にとっては物語に入りやすいキャラクターとして必然かもしれないが、大人が目の大きいキャラクターを要請する時、その理由は何だろう。
子供を愛でる様な目線が心地よいという事だろうか?目の大きなキャラクターをアニメの初期設定とする時、物語が大人の知性を備えていないと大人の鑑賞に堪えうるものにならないだろう。
しかし、物語が大人の知性を備えている時、物語が要請する表現としてのキャラクター造形に、目が大きい事が必然にはならない可能性は高いと思える。
しかし現在、大人の知性を備えていると思われる物語だとしても、目の大きさは手放した作品は皆無だ。
その理由は複雑だと感じる。
一つ理由として大きいと思えるのは、キャラクターの目が大きい事を良しとするものだけがアニメ・漫画の世界に浸れるという敷居や通行証のように機能してるのではないかという事。
一斉を風靡した大友克洋のような目の大きさは決して主流になった事はない。
アニメが持っている幼児性は武器ではあると思うがそこに常に自覚的でないと危ないだろう。
演劇や映画が持つ社会的ステータスをアニメが獲得するには幼児性の扱いが非常に重要だと思える。
今、商売しやすいからという理由だけで安易に寄りかかっていると手ひどいしっぺ返しを食らう事になるかもしれない。

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